「山の呼ぶ声」は、創文社から1963年に刊行されました。同年に制作された5作品が収録されています。それぞれの作品には、畦地梅太郎自身によるエッセイが付されています。本ページ中のコメントは、それらを転載したものです。

山男

 山の垢のしみこんだ人はみんないい人だ。わたしのまわりは、そのんな人ばかりだ。わたしは、そんな人をほんとうの山男だと思っている。
 文通はつづけても、まだ一度も逢ったことのない山男もいる。いつの便りにも、山の垢の香がぷんぷんしている。常日頃、よく逢う山男も、大事な要件そっちのけで、山の話しに花さかす。明けても暮れても、山ばかり考えているとしか思えない。
 わたしは、そうした山男の引っぱりによる教えによって生きてきたようなものだ。山はわたしにとって、外では求められない憩いの場なのである。
 山はわたしにとって、生活の一場面でもあって、遊びではない。現実の生活をはなれいても、山には、肉体の酷使の上に、はげしい精神の闘争が、山男にはあると思う。

山の鳥

 山上の明け暮れは、夏の季節にもきびしさがある。人間を恐れないという雷鳥は、雪線上の高原や、尾根筋でよく見かける。ときに、雛鳥を四、五羽も囲りに連れたのもいる。人が近づけば、雛をかばって、おろおろと、雛のそばから離れない。
 それは、人間を恐れないというのではなく、人間の持つ恐ろしさから、生きるものの、本能的なまもりの姿のようにも見える。
 ある高原で、親子連れの雷鳥を、追っかけまわしている登山者を見たことがある。それをまた、おもしろがって、カメラをむけている登山者がいたが、雷鳥たち生きるものの、住む最後の地域、これでは、やがて滅びゆく生物だろうと考えた。
 蝶やトンボが大切か、水力発電が大切かと大見栄切った事業家があったが、その登山者たちは、やがて、大見栄切る事業家にでもなりそうだ。

雪渓

 真夏の太陽が、澄んだ山気を通して、照りつける。それでいて、涼しい風が顔にあたる。肌は汗でぐっしょりだが、足元は冷々とする。アイゼンの爪が凍った雪面に、音をたててきしむのが心よい。
 登山者の列の上は、まっ青な大空で、つきぬけるように深い空だ。これが雪渓の風景だ。 雪渓のへりの草地は、高山植物の色とりどりの花ざかり、しかし、おどろいたことに、雪渓べりの薄い氷を打破った形で、あちこちキヌガサ草ににた植物が、太い芽をふいていたのを見たことがある。
 かたい氷があっても、季節がくれば、大地の地熱に励まされて、生きのびようとする植物の生命力に、わたしは、合点するものがあった。
 こんな思考の山歩きは、流行の山の埒外だけれど、わたしは、山歩きの流行は追いたくない。

雪風(別題・風)

 新聞や、雑誌が、いくら警告発しても、山の遭難は、いっこうにあとを絶たない。説得力がたりないのか、反省心を持たないのか、とにかく、若者達の山への執念の深さに驚くばかりである。
 年よりの何とかなどと、山へ行かぬ人からひやかされるけれど、わたしだって、雪山歩く。ただ、わたしの場合、雪山の歩きっぱなしでないだけのことである。
 雪山の猛吹雪は、登山者には、地獄の一丁目、苦闘のかぎりだ。なまやさしいものではない。わたしは、その地獄の一丁目的な感動の激しさを、内面的に描写したいのだ。
 山の姿の自然描写の連続は、自分自身が飽き飽きする。人間の本能が求める未知の世界を探りたい。そして、わたしの場合、かならず、山に人間の臭いが入りまじりたい。それが、いいかわるいかは、自分には判らない。

山の呼ぶ声

 自由職業という名目のわたしは、暇がありそうで暇がない。いつも、仕事に追っかけられている。だから、このごろ、やたらに山へ行けぬ。
 人から、一緒に行こうやと、さそわれて、約束していても、仕事の都合で、取り止めたりする。その点では、友人にも信用なさそうである。
 そのかわり、一人で山へ行ったとなると、帰る日忘れるほど山の中にいる。いつまで山の中にいても、これで満足だということはない。約束の日にはなかなか帰れん。昔そのため、山から帰って見たら、隣家の火事で、類焼を防ぐため、家を壊されていて、弱ったことがある。
 山を下る時、こん度の山も、これで終りか、再び、街の生活にもどるのがつらいなと思う。ふりかえり眺める山に後ろ髪引かれる思いの有りさまだ。

山男(1955)

山男作品群初期の小さな山男作品です。1963年にこの作品の版の一部を変えた「ピッケルを持つ山男」という作品が制作されています。この作品は、いわば「ピッケルを持たない山男」でしょうか。

山男(三)(1956)

山男を題材にした作品の中でも初期の作品です。今でも人気がある作品です。

山男(四)(1956)

この作品の中の山男は、らいちょうと向かい合って、まるで会話をしているようです。1956年を過ぎる当たりから、山男作品は、現実の世界にはないような情景が描かれ、また、山男も実在の人間の姿とは異なる姿で描かれるようになっていきます。

山男(五)(1956)

片手でカップを持ち、もう片方の手でらいちょうを支えている山男。らいちょうに水を与えているのでしょうか。

わかれ(1956)

やっとの思いで山を登り詰め、そこでめぐりあった生きものと別れを描いた作品です。これから山男は、山を下りていきます。

めぐりあい(1956)

「わかれ」とは、同じ時期に作られ、対をなす作品です。人物は、銃持っていますが、それを使うのを止め、優しい目になっています。

ザイル(1957)

畦地梅太郎は「ザイル」という題の作品をいくつか制作していますが、それらの中でも代表的な作品です。明るい服の白と背景の深い黒とのコントラストが特徴的です。

山のよろこび(1957)

題名のとおり、山男は鳥を持ち上げながら、喜びの表情を浮かべています。創作版画が非常に大きな作品で、大英博物館にも収蔵されており、創作版画が海外で高く評価されていたことがうかがわれます。

なげく山男(1957)

ガラス絵のような描写と色遣いが特徴的な作品です。色遣いに惹かれるファンの方も多いようです。

山を行く人(1957)

「なげく山男」と同じような作風の作品です。リュックを背負い、杖を持った山男が、モザイク模様の組合せで描かれています。

雪の中の男(1958)

山男作品の中でも非常にシンプルな構図て描かれている作品です。一面白く描かれた背景から、雪深い山が連想されます。

若者(1958)

「雪の中の男」と同じような色づかいと構図ですが、山男は、どことなく若者らしく見えるようにも思われます。

若者(1959)

首にロープをぶら下げた人物は、首をかしげてこちらを見つめています。ヒゲがありませんので、女性を描いているのではないかと思われます。シンプルな構図ながら、何か印象深く残る作品です。

風(1959)

山男の顔は、少し厳しい表情なのですが、風になびいた髪がかわいらしく、当時の山男作品の中では、優しい印象を与えています。